面会

厳重に幾重にもなった扉の前でブルースウェインことバットマンは息をのみ吐き出した。
呼吸を整える。それだけで人の精神は安定するものだ。
精神は肉体に作用する。
肉体は精神を形作り、精神は肉体を形作る。
肉体が病に犯されては 精神は病んでしまうし、 精神が病ならば 肉体もまた 衰弱してしまう。 それはごく自然なことであり当然のことである。
だが彼にはその法則は通じないようだ。
この扉の向こうにいる男は精神の怪物だ。その精神おいて人間以上の存在だ。

1年近く前 、彼と対峙した日のことを思い出す。
薄暗い薬剤の臭いが充満した工場の中を駆け回る。
安定の悪い足場錆びた手すり。 腐食しきった工場内の設備。
行き場を無くした彼の足場が崩れ落ちる。 手を伸ばしても届かず スローモーションのように落ちてゆく人の形の影。
……ボシャーン
響きわたる 水音。

……殺した。
殺した殺した。
殺した殺した殺した殺した殺した

複数の有害物質が入り混じった 工場の廃液タンク 。
こんなものに 落ちてしまっては、人間などあっという間に死んでしまう。

まだ間に合うかもしれない…助けなくては……助けなくては!
だが 廃液タンクを爆破し、中から出てきたそれはもはや人の原型を留めていなかった。肌はドロドロに溶け くぐもった呻き声と呼吸音を上げのたうち回っている

……あぁぁぁあああ、私は何てこと!

大学病院に搬送されその後精神に異常をきたすかもしれないというわけでアーカム精神病院に移送された。

私は彼のことを何も知らない。
ただあの日窃盗団を追いかけ、工場の中にいた彼を追いかけた。 素顔すら知らない もちろん名前も。
もしかしたら巻き込まれただけのただの 善良な市民だったのかもしれない。 もしそうだったのなら彼はただの被害者だ。 私はとんでもないことをしてしまった。
いや彼が窃盗団の一人だったとしてもこんなことをしてはならなかった 。皮膚がドロドロに溶けて もしかしたら精神も壊れてしまったのかもしれない彼のことを思うと 胸が張り裂けそうだった。

毎日毎日祈り続けた。
どうか彼が 生きてますように
死にませんように
回復してくれますように
神様お願いです 彼を殺すつもりなんてなかったんです。
神様お願いです彼を死なせないでください。
神様お願いです彼を助けてください。
神様お願いですお願いです。

神が祈りを聞いてくださった……など甘いことは考えてはいないが… 彼はだんだんと 回復していった。
だがその姿は あまりにも凄惨なもので 自分のした行為を目の前で突きつける結果となった。
かろうじて回復した肌は 白く漂白されケロイド状にただれてひどい部分は黒ずんだまま 至る所にかさぶたがあり 血が滲んでいる。 髪はまだらに抜け落ちて変色して青カビのような緑色になっている。 口元は傷と浮き出た毛細血管でまるで赤く笑ったように吊り上がり血が滲んでいる。 もはや年齢が分からぬほどシワや傷あと、目元は黒ずんだままになってしまった。

彼は、…彼のこの姿は私の原罪だ。
彼を殺しそうになった私の罪だ。
こんなことをしてはならない。
人を殺すような真似はしてはならない。
そんなことをしては父と母を殺した 犯人と一緒になる。
彼は私の罪と罰だ。
意識が戻って話せるほど回復したら彼に謝罪しよう。
許してもらえないかもしれないけど。
もしかしたら気が狂ってしまっているかもしれない。
もしかしたら私を殺したいほど憎んでいるかもしれない。
もしかしたら私を ひどく恐ろしいものとして恐れるかもしれない。

だが彼は私が思っていた どんな人物像にも当てはまらなかった。
いや彼のような人間はいまだかつてお目にかかったことがなかった。
彼は善良な市民などではなかった。
彼は窃盗団の下っ端などではなかった。
だからといって彼は窃盗団のボスというわけでもなかった。
今まで私が出会ったどの犯罪者とも全く違う未知の人間だった。

半年経って喋れるほどに回復し面会が叶って会いに行った時、 彼の反応は私の予想していたものとどれも違った。 当然私の姿を見れば悲鳴を上げ、あるいは怒鳴り散らし、もしくは怯え 私を拒絶するだろうそう思っていたのに 男はそのゆがんだ口元に笑みを浮かべていた。
まるで愛しい相手に出会ったような親密さを浮かべ囁くように語りかける。
「嬉しいよ会いに来てくれて 死にそうなほど退屈していたんだ」
得体の知れない笑みを浮かべ、 代わり映えのしない傷んだ囚人服に、 身の毛もよだつほどの恐ろしい外見と、エレガントさと優美さを兼ね備え 明確すぎるほどの知性を身に纏う。

この男は何だ?
……これは何だ?

彼に謝罪しようと思っていた意識は一瞬で吹っ飛んでしまう。
得体の知れない恐怖に全身から汗が噴き出す。
犯罪者に恐怖を与えてきたのは自分のはずだった。
そして彼をこんな姿にしたのなら彼も自分に怯えるのが普通の反応だろう 気が狂ってしまっているのかと 一瞬思い、 そのあまりに聡明なしゃべり方にそれは違うと否定する。
「またおいで愛しい人」
まるで恋人に言うような物言いに困惑を覚えながらその日の面談を終わったのを覚えている。

心理学者のジョナサン・クレイン博士と出会ったのはその時だ。
「ほぉ、本当にいたのか君が実在するのか神経科学科の同僚と賭けをしていたんだが私の負けだ」
アーカム精神病院を 重度の精神病犯罪者の収容施設として 一部改装するため大学と兼任で働いているらしい。
自分が感じた違和感を彼に話す。
恐怖や不安の専門家である彼ならば この違和感について明確な答えを出してくれるのではないかと考えた。
「あぁ、答えは簡単だ、彼は狂人だからだ」
「狂人だって?だが、狂っているようには見えなかったぞ」
「だからこそだよ。 精神は肉体に作用する。肉体は精神を形作り、精神は肉体を形作る。肉体が病に犯されては 精神は病んでしまうし、 精神が病ならば 肉体もまた 衰弱してしまう。 それはごく自然なことであり当然のことである。 だがそれは彼には当てはまらない」
「つまり? 」
「普通の人間ならばあそこまで肉体が壊れてしまえば ひどい PTSD に襲われたり、 何らかの精神障害を発症する。 最低でも自分に傷害を負わせたものに恐怖心を抱かないなどということはない。 だが彼に関して言えばその兆候すら見当たらない。 つまり何事もなくまるで正常かのように 振る舞えている。そのこと自体が異常だ」
「正常に振る舞っていることが異常だって?」
「そうだな。それとも 超正常とでもいおうか。 人間は AI じゃない 痛みはただの電気信号ではない。 肉体に対する痛みは精神をも損傷させる。損傷すれば修復が必要になる。 それは肉体も精神も同じことだ 」
「私は人間以下の存在を相手にしていたのか 」
「人間以上かもな。彼は“人間 とは明らかに異なる奇怪な化け物„だ」

その後半年足らずの間に 彼を担当した 精神科医の2人が自殺、 1人が離職、 アーカムを尋ねている時ジョナサン・クレイン博士と会うこともあったが 彼が幾分疲れた顔をしてノイローゼ気味に見えた。

Beeeee....という警報音が鳴り響く。
2重扉のロックを解除し中に入って行く ガラス越しの鉄格子は不鮮明で ぼやけて映る。
バットマンはファイルを 差込口から入れた。
「プレゼントか。もうすぐ一周年だもんな」
男の声は 若く、囁く様でもあり また精神を抉る様でもある。
「連続殺人だ。お前の見解を知りたい」
彼のため息が響く。
「最初の記念日は紙か。……なんでそんなに軽く済ませようとするんだ?」
「興味があるだろ」
「何か話すと思っているのか ?」
「違うか?」
「…写真はあるのか?」
彼はファイルを受け取って座り、笑いながら 興味深そうに ページをめくる。
hahaha,hihihi,ohooo...
「あぁ、…この殺し方は相当歪んでいるな。謎々が好きみたいだ。ものすごくこだわってる。」
彼はページをなぞる。 その手は血が滲み 爪を汚していた。
「まるで人生をこの計画に捧げてきたみたいだ。こいつが誰だかわかるぜ」
「…誰だ… 彼は誰なんだ?」
「 彼は何者でもない 。何者かになりたがっている」
「市長・本部長」
笑みを浮かべて男はページをなぞる。
「……野心があるな」
「動機は政治的なものだと思うか?」
「No,no,no,……とてもとても個人的なものだ。」
「こういう連中に不当な扱いをされたと感じているのだろう。おそらくずっと前にな。癒えない傷を与えられ、金を奪われた」
「なぜ私に手紙を?」
「お前のファンなんじゃないか?それかお前に対しても恨みがあるとか 。もしかしたらお前が原因なのかもな。……他の可能性は?」
「まだわからない」
「本当か?」
「お前は常に一歩先をいってるってのになぁ。 ……hahaha,今回は何かが違うんだろう?お前を動揺させている」
「…話を戻そう」
茶化すように彼は続ける。
「どうしてだ? 楽しいじゃないか!」
「私の話をしに来たんじゃない」
「何の話をしに来たんだ?」
「やつが何を考えているか知りたいんだ」
「それはお前が一番よく知っているだろう? ファイルを読んだんだろ?お前たちは本当によく似てるぜ」
彼はファイル をバタリと閉じバットマンに返した。
『マスクの復讐者 』
「やつの方が高潔だ。お前は奴のせいで柔に思われるのが怖いのか?」
「…時間の無駄だった」
ファイルを受け取り立ち去ろうとするバットマンを見て彼は笑い出す 。
Beeeee....という警報音が鳴り響く。
……HAHAHAHAHAHA!!!!
「OK!OK!!…分かった。俺の本当の考えを教えてやるよ。 俺が思うにお前にとって奴の動機なんてどうでもいいんだ。お前のことを愛しているか憎んでいるかも。心のどこかでは お前はただ恐れている。やつが間違っているかどうか確信が持てないからだ。
HAHAHAHAHAHAHA!!
あいつらには当然の報いだと思っているんだろう!
HAHAHAHAHAHAHA!!
あいつらには当然の報いだと思っているんだ!」
HAHAHAHAHAHAHA!!HAHAHAHAHAHAHA

彼は去って行くバットマンの姿を見守りながら目を細めた。
まったくあの愛しのコウモリは本当に脇が甘い。
ファイルからクリップを数個盗んだことを気づいてすらいない。 そういった彼の甘さも含めて愛しているのだが きっとその想いは分からないだろう。
クリップなんかよりよっぽど素晴らしい贈り物を今回は持ってきてくれたようだ 。
もっとも本人は気付いてもいないだろうが。

『リドラー』
繊細で精密、複雑な計画を立てそれを実行するだけの力を持ち、 明確な意志の強さと歪さを持ち合わせている。
なんて素晴らしい!!
その持って生まれた素晴らしい 才覚を活かせるような環境にはいなかったのだろう。 かわいそうに。
ラブレター から読み取れる思いは孤独 ・認証欲求 ・愛情に飢えている……歪なほどに。
自分のことで手一杯なあのコウモリが 彼の思いを汲み取ることができるとは到底思えない。 ……ならば自分が何とかしてやろう。
ゆがんだ社会のルールや 概念から彼を解放し、 彼の孤独を満たしてやり、その持って生まれた才覚を 心ゆくまで引き出してやろう。
さて愛しのコウモリは 俺のところまで彼を連れてきてくれるだろうか。

ここは少々退屈だ。
精神科医たちを崩壊させて行くのも飽きてしまった。ジョナサン・クレインも、もう放っておいても精神が瓦解し狂気に陥るのは時間の問題だろう。
そろそろ出て行こうかと考えていたが、こんな素晴らしい贈り物を貰えるのならもうしばらく延期だ。
……彼に会える日が楽しみだ。