シェイクスピアの夜

きれいは穢い、穢いはきれい。
さあ、飛んで行こう、霧のなか、汚れた空をかいくぐりー
ー『マクベス』よりー

夜の帳が訪れる。
Knock, knock, knock, 壁を叩く。
向こう側からも同じように壁を叩いて返事が返ってくる。
この行為は私たちの日課になりつつあった。
朝と夜には必ず、 あるいは気が向いた時間に こうやって壁を叩いて話しかける。

私は朝が来るのなんて大っ嫌いだった。
隣に寝た子が死んで 冷たくなっているのを一番に目撃する。
死は絶えず日常に存在し 次はお前の番だと 私のほうを見ている。
孤児院であるいは道端で死んで行く子供のことなど誰も気にかけない。
ドロップ中毒で飢えで寒さで 暴行されて 子供達が死んで行くことなど日常で 誰ひとり気にもかけなかった。 私だって 日常の中で人が死んでいく事に慣れてしまい もうずっと何も感じなかった。
誰が死のうと どんな残酷なことが起こっても 。
……けれど今は怖い。
朝起きると、とても怖い。 毎日壁を叩いて 彼が 返事をよこすのを待っている。
knock, knock, knock,
彼からの返事が返ってきて初めて私は安堵してその日1日が始まるのだ。

ここは私が育った孤児院よりはるかに環境が良い。
狭くとも一応は個室で 飢えて死なないように食事は出される。囚人服ではあるが衣類も与えられている。 ただ生きて呼吸をして動物のように命をつなぐだけならば 孤児院よりは遥かにマシな環境と言えるだろう。
だが【人間はパンのみにて生きるにあらず】人間を生かし続けるのは 精神的なつながりというものが どれほど大切だろうか。 彼と話すその時間だけが 私にとって生きている時間と言えた。
思えば私は他人とつながるということ極力避け続けた。
仲良く話していた子が翌日には死んでいる。
そんな理不尽な現実が 誰かと関係性を持つという基本的なことを 奪っていったのだ。他者とつながることが 相手の死を見ることならば 望まなくなってしまうのは当然のことだと思う。
誰かを愛することも、愛されることも、私には受け入れがたいものだった。
それでも全くつながりを持たなかったわけじゃない。
社会に出てから表面的な付き合いはしたし、 インターネットという手段で同志を集めた。
ならばそこに愛情や思いやりがあったのかと言えば No と言わざるを得ない。
私には心を開ける相手なんて一人もいなかった。 ほんのひとかけらの感情を持つ相手だっていなかった。 そんな相手を求める感情ですらもはや麻痺して存在しないも同然だった。
……彼と出会うまでは。

…退屈は死に至る病だ。
当然だが牢の中に娯楽は一切存在しない。
私の置かれている立場は 囚人であり、治療が必要な精神病患者だ。もっとも精神病患者というのは建前で 実際は私を刑務所に置いておくには危険すぎるという判断をしたためだろう。
事実治療する気などまるでないらしく、治療らしいカウンセリングなどは一切ない 。
人間は一週間も何もない空間において置けば気が狂うと言うが、私の精神を壊すためにわざとそうしているのだろうかとすら思えてくる。

私のここでの唯一のそして最大の楽しみは彼と話すことだった。
まだ一度も彼の顔を見たことがなく その声だけが向こうから聞こえてくる。
誰かに心を開くことも もっと言えば好きになることなんて自分にはないと思っていた。 壁の向こうの声だけが私を生かしていた 肉体に対する栄養よりも精神に対する栄養を私は欲していた。
誰かと話をすることによって心が満たされるということは私には存在しなかった。
孤児院の子供達は話があったためしがないし、 成長してからも話の合う相手など巡り会うことはなかった。
私の心を満たしていたのはもっぱら本だった。
いつから文字が読めていたのか記憶に定かではない。
孤児院の子供たちは大半が文字が読めなかったし 子供達に教える者など誰一人いなかった。 もしかしたら自力で自然と覚えたのかもしれない。 記憶力には自信があるほうだから。
ともかく文字が読めるというのは私にとって強みだった。 道端に捨てられていた古新聞・ 古雑誌・ ボロボロの古本を 拾ってきてはいつも手にして読んでいた。
自分でも活字中毒だと思う。
知識を貪ることだけが私の生きる喜びだった。
私が他の子供達のようにドロップ中毒になったり食いつぶされずに済んだのは そのおかげだったのだと思う。 文字が知識がそれがどれほど危険なものか教えてくれた。 危険であるということを理解するのもまた知識だ。
薬物なんかなくたって 私には物事を知るという喜びがあった 文字を読み、知りえた知識を蓄え、自ら組立て別の形へと書き換える。
複雑で難解な謎を組み立てるのが楽しくてたまらなかった。
もっともそれを理解し 私の提示した 謎を解き、謎で返してくるような相手は今まで会ったことがなかった。
孤児院にいた孤児たちはもちろん 大人になって法廷会計士になってからも 理解しあえると思った相手に出会ったことはなかった。 人付き合いが苦手だというのを差し引いても 話が合う相手がいなかったのもまた事実だ。
初めて自分を理解してくれる相手に出会った気がする。
初めてまともに話せる相手と出会った気がする。

ぽつりぽつりと雨が降るように 私は自分の話をする。
孤児院で育った話 孤児院を出てからは安月給な日当で給与がもらえる配達の仕事をしていたこと、 住む場所もなく配達の荷物の集積場で寝泊まりしていたこと。
「……それでね法定会計士になりたいと思ったのは、その時かな…配達の合間にチラリと見える 事務所内、 聞こえてくる会話。……社会の役に立てると思ったんだ。この世の中の不正を暴ける。 いくら私が孤児だからって この扱いは不当だとずっと思っていたんだ。…どうして ?なぜ? 何も悪いことなんてしてないのにボロボロ死んでかなきゃならない? お金持ちのお坊ちゃんは 恵まれているのに、皆に同情してもらえて大事にされて …。いったい私たちの何が違うの? どうして同じ命の重さじゃないんだろう? 世の中に一矢報いられると思ったんだ 。だから何度も何度も頭を下げて、事務所の雑用係に雇ってもらって、 事務所で本を譲ってもらったり貸してもらったりして、……必死で勉強したんだ。… 嬉しかったなー…試験に合格した時は。 これでやっと報われたって思って」
「 頑張ったんだな……すごいじゃないか」
彼からの肯定の言葉が 胸に響く。
その一言を言ってくれるものは私の周りにはいなかった。
「うん。 頑張ったんだ 。頑張ったら きっと未来が開けると思ってた。 正しいことができるって思ってた」
「…そうはならなかった ?」
「……うん 正しいことなんて何もなかった。正義なんてどこにもなかった」
あの頃のことを思い出す焦燥感、痛み、どうにもならない苦しみ。 命を脅かされることはなくなってもそこにあったのはどうしようもないほどの閉塞感。
「…………私達が育った孤児院のための基金が権力者たちによって食い物にされてた。」
「それで……黙って見てたわけじゃないんだろう?」
「うん …法的な手段に出てみようとしたり、 なんとか告発しようと頑張ってみて 新聞社に送りつけたり 、だけど全部ダメだった。 握り潰されて……クビになっちゃった」
「 正しいことをしたいなんて思っちゃいけなかったのかな? なんで?どうして?薄汚い連中から目を背けて生きていかなきゃいけなかったのかな ?…正義なんてなかった。 ……正しい心を持った人間なんていなかった 。ねえ私は間違っていた?」
「お前自身はどう思っているんだ ?」
「私は……私は間違ったことをしたなんて思っていない。」
「ならば、答えは出てるんじゃないか」
彼のため息が聞こえた。 あたりは静寂につつまれる。

「万策尽くれば、悲しみも終る、事態の最悪なるを知れば、もはや悲しみはいかなる夢をも育みえざればなり。
過ぎ去りし禍いを歎くは、新しき禍いを招く最上の方法なり。
運命の抗しがたく、吾より奪わんとするとき、忍耐をもって対せば、その害もやがては空に帰せん。
盗まれて微笑する者は盗賊より盗む者なり、益なき悲しみに身を委ねる者はおのれを盗む者なり。」

朗々とした台詞まわしは 美しくもあり 静寂の中で響き渡る。
「…それ…なに?」
「オセロのヴェニス公さ、シェイクスピアだ。いいか、お前は今ドン底なんだよ。これ以上無いってぐらい最も深い奈落の底に居るんだ。今より悪くなる事はない。自分の心に正しくあれ。他人のじゃない、お前自身にだ。」
彼は一旦言葉を区切り歌う様な台詞まわしでこう続けた。
「出来るだけ元気を出してくれ、どんな長夜も、かならず明
けるのだ。」
「それもオセロかい?」
「いいや、マクベスさ」

私にとって闇の中で、彼の声だけが光となっていた。
彼の存在は私に微かな生きる力をくれた。
誰も助けてくれず正義すらないこの世界で彼の存在だけが 救ってくれた。
……もう正しいことが何なのか 分からなくなってしまった。
だったら、社会の正義ではなく 自分自身の心に従うのが 一番正しいのかもしれない。
彼が言うようにどんな夜も明けるのだから。
……きっと夜明けの黎明はちかい。

end

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