アヴェマリア

その歌を好きかと聞かれれば嫌いだと答えるだろう。
それはあまりに辛い記憶と結つき確かな痛みを持って私の胸を抉る。
だけど私はこの歌以外に祈りの歌を知らない。祈りを捧げる言葉だって知らない。
記憶力がいいということは良い事ばかりではない。特に辛い記憶というのは忘れようとしても忘れることができず、何度も何度も心の中で繰り返し再生される。
物心が着いたときから誰がいつ死んだのかを忘れようと思っても忘れることができない。 私の目の前で死んでいった子供達、哀れな子供たち。
それは何度も何度もフラッシュバックしては私の記憶に再生される 。痛みが臨界点に達した時私は囁き祈るようにその歌を歌った。

神様、神様お願いです。 哀れな子羊をお救いください
神様お願いです。 絶望の淵から お救いください
神様お願いです。 ……たすけて。……神様

けれど祈りに込めた想いが届くことはなく いつも私の目の前には無慈悲な死神が舞い降りた。
死はいつも身近にあって私のそばにやってきては次はお前の番だという。
この歌は嫌いだ。嫌な思い出と絡み合う。
それでも死んだ子供達に歌ってやれるのはこの歌しかなかった。
この歌を歌った時の事思い出す。 この歌を歌うために選ばれた時のことを思い出す。 優先的に見目が良い子、 歌が上手い子が選ばれた。 孤児院で 教育 らしい教育は一切施されなかった。……この歌を除いては。
全員のこどもたちに一度歌わせ、 見た目が綺麗な子と歌が上手い子だけを選りすぐり、さらにレッスンをつけさせる。
同じ部屋の中で選ばれたのは私だけだった。
「いいなあエドワード」
「ねえねえ歌を歌ってよ」
年下の子供達からそうせがまれて 私はこの歌を歌った 。レッスンの間は ましな食事が提供される。 少しばかりのおやつも出された。 持ち帰っては 部屋の子供達にそれを分け与える。 小さな小さな袋詰めのキャンディ一粒だったり。 JELLY BEANS を一粒だったり。少しばかりのおやつはさらにわずかな量になって 年下の子たちの手に渡る。 それは孤児院での私のほんの少しばかりの喜びであり、 笑うことができた唯一の時間でもあった。
「エドワードの歌大好き」
そう言ってくれた 女の子のことを思い出す。
「エドワードは僕たちの神様だね」
そう言ってくれた小さな男の子のことを思い出す。
幸福でそれでいて、思い出したくもない辛い記憶 。

やがてレッスンが終わり本番も終わり 少しばかりのお菓子を持ち帰ることもなくなった。
それでも 私はねだられて歌を歌った。
歌えば年下の子たちが笑顔になった。
それはそれまでの間味わった悲しみをほんの少し和らげてくれた。
私が知っているまともに歌える唯一の歌 。
そしてあの時は私を救ってくれた歌でもあった。
……だがそれもほんの半年もたたぬうちに 苦く苦しい 記憶へと変わってしまった。
私の歌を好きだと言ってくれた女の子が殺された。 まだ年端もいかぬ子供だというのに…両目をえぐられ 犯されて、…雪の降る寒空の下で死んでいた。
神様どうして彼女を助けてくださらなかったのですか?

その年の冬を 私のことを「神様だね」と言った男の子は越すことができなかった 。
やせ細り死斑のできた体を思い出す。
私のパンを分け与えれば彼は生き延びることができただろうか? いいや違う、二人とも飢えて死んだだけだろう。 それでも私は考えてしまう。 私のパンを分け与えればあの子は生き延びたんじゃないだろうかと。

私は神様なんかじゃない。

…救いなんてどこにもない。誰も救ってくれない。
私は誰も救えない。
私の足元にすがった小さな子供たちでさえ救うことができなかった。
ただ自分の命を守るのに精一杯だった 。もはや隣で誰が死んでいても悲しむこともなくなってしまい……私が孤児院を出て行く頃には さらに酷いことになっていた。

社会に出てから私は救済ではなく正義を求めた。
法定会計士になりたいと思ったのは正しいことがしたかったからだ。 夢が叶った時は嬉しかった。 何も持たない私でも 叶えることができたのだから。……だがその結果見えてきたのは 薄汚い人々の欲望だった。
……私達が育った孤児院のための基金が権力者たちによって食い物にされていた。

どうして?なぜ ?
神様 なぜあのような者たちを見過ごされるのですか?
あなたがあの者たちを裁かないというのならば……私が裁いても構わないでしょう?

私は廃墟と化した孤児院の中を歩いている 。
建物の屋根は崩れ落ち 空には深い闇が広がっている。

……反射的にこれは夢だと思った。

私が過ごした部屋に死体がいっぱい転がっている。
目の抉られた少女 、やせ細り死斑ができた少年、 みんな知っている子だ。
起き上がり私の腕をつかみ服を引っ張り私の目を覗き込む。
「エドワードどうして助けてくれなかったの?」
「エドワードどうして僕が死んでいくのを黙って見てたの?」
……エドワード……エドワード
どうして…… どうして……どうして?

どうして彼らを救わなかった?
   どうして私は生きている?
         どうして私だけ……?

神様どうしてですか?
私が自分の命を優先させた身勝手な人間だからあなたは私の願いを聞いてくださらないのですか?
神様どうしてですか?
私はここで死ぬべきだったのですか?

ごめんなさい…ごめんなさい……ごめんなさい
助けてあげられなくてごめんなさい
黙って見ていてごめんなさい
身勝手に一人だけ生きていてごめんなさい

死んだ子供たちを私は抱きしめる 。
真っ暗な闇の中で 死んでいった子供たちと一緒に消えてしまいたい。
…痛い苦しい……生きていくのはこんなにも辛い。
私の人生に 救いなど どこにも存在しない。

ふと、闇の中から歌声が聞こえてくる。
囁く様に、だがはっきりと…若い男の声が響き渡る。

『アヴェマリア 慈悲深き乙女よ
おお 聞き給え 乙女の祈り
荒んだ者にも汝は耳を傾け
絶望の底からも救い給う

汝の慈悲の下で安らかに眠らん
世間から見捨てられ罵られようとも
おお 聞き給え 乙女の祈り
おお 母よ聞き給え 懇願する子らを』

祈りの歌は 辺りを包み込むように 響き渡り、 闇の空にうっすらと光がさしてくるのが見える 。
薄明光線…ヤコブの梯子が空から舞い降りて私と死んだ子供たちを包み込む。
子供達はみんな 生きていた頃の姿へと変わる。
キラキラとした笑顔を浮かべて 天使の姿へと変わり、ヤコブの梯子を登っていく。
それは宗教絵画のような美しい光景で、最後に私一人が残った。
光の向こうに天国があるのだろうか……皆天使になっていってしまった。

やわらかなその光は月明かりという事に気がつく。
そうだ私は牢の中にいる 。――夢から醒めたのだ。
だが祈りの歌声はまだ響いていた。 それは伸びやかにそしてもう少し不安定に響き渡り 月明かりの心地よさと共鳴して 神秘的に思えた。

やがて歌は止み隣の独房から友の声が聞こえる。
「……落ち着いたか?」
そう言われて私は自分がうなされていたことに気がついた。
「うん…ありがとう。だけど、どうしてこの歌を?」
そう尋ねると少し間が開いて、
「うん?だってお前この歌好きだろ」
あぁ、…そうか……よく歌うからそう思われていたんだ。
「ねえ少し一緒に歌わない ?」
「 こんな夜更けにか ?」
huhuhu,hahaha……
「…いいぜ」

月明かりの下で二人で歌う。
『歌ってよ!エドワードの歌大好き』
そんな子供たちの声が聞こえた気がする。
…………まるで福音の様に。


end

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