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「心配はないわ。 弾丸は致命傷には至っていないし 破片も残っていない。 このまま安静にして銃膏が治れば 問題ないはずよ」
ドクター ・クインゼル の言葉にブルースは胸を撫で下ろした。
ニュースはテレビショーのことで持ちきりである。
「今は薬で寝ているわ。 もっとも彼のことだから効きが悪いんだけど」
心配でたまらないそんな表情をした ブルースを見て ドクター ・クインゼルは言葉を続けた。
「心配しなくても Mr. J が 素人に撃たれて死ぬはずがないでしょ。…これはあいつが仕組んだリアリティショーよ。 わかって撃たれてる。 スタジオで自分を狙っている奴がいることぐらいとっくに把握してたはずよ。 …ううん、それどころか 生放送で 自分が出てくれば 命を狙ってくる奴がいることぐらい とっくにわかってる。 その上で出演してるのよ。 だからわざわざ 血が目立つように 白のスーツなんて着てきたんでしょ。 彼が自分に同情が集まるように 仕向けるぐらい 簡単なことよ。分かってるでしょ。 これはわざと 撃たれるために 自分からして仕向けたことなのよ。 自分が被害者を装い 自分の被害者だったものを加害者に仕立て上げることで 世間の見方を変えてしまうために仕組んだこと。 分かってるでしょ、それぐらいやるやつだってこと。」
ブルースはため息をついて頭を抱えた。
「……自分の命をだしに使ったというわけか。」
「そんなの 彼にしてみればいつものことでしょ。銃撃戦だ銀行強盗だが普段の日常なんだから。 銃膏なんてしょっちゅうよ。 大体あんただって ずっとあいつを追いかけてきたんだから 分かってるでしょ。 こんなぐらいで死んでたら 一体いくつ命があればいいのよ! 素人の弾丸を避けるなんて あいつにすれば簡単なこと… それをわざわざ自らの身体で受け止めたのは テレビショー として他人に見せるためでしょ。 この後どういう風に 世論が動いていくか分かっているから、 こんな体を張ったジョークをしてるわけじゃない」
眉間にしわを寄せて 難しい顔をする ブルースにクインゼルは話しかけた。
「……あんたも少し休んだら ?ひどい顔してるわよ? ずっとテレビに出ずっぱりだったんでしょう ?明日また往診に来るから、 今日は失礼するわ」
ドクター・クインゼルを見送って ブルースはジョーカーの 部屋へと入っていった。

呼吸器が取り付けられていて 酸素が入る音が聞こえる。胸がわずかに上下している。
パジャマの下に 白い包帯が巻かれているのが 見える。 痛々しくはあるがその姿にブルースは胸を撫で下ろした。

ー自分の命を 大切にしてほしい。
なぜ彼は そんな単純なことがわからないのか
生物として最も基本的なことであるはずなのに。
……なぜこうも軽く自分の命を扱うのか。

ブルースはジョーカーの手を握りしめた。 自分の手とは違うか細い手をしている。 その細い指先が自分の手を握り返してくる。 彼のほうを見ると うっすらとその翡翠色の瞳を開いた。 ブルース ジョーカーは自分のほうを見ている。
「ジョーカーよかった。目を覚ましたか」
ジョーカーは体を起こしガサゴソと動いて 呼吸器を外そうとする。
「よせ !!」
ブルースはジョーカーを制止した 手首を握りジョーカーを凝視する。
「…どうしてあんなことをした 」
ジョーカーはきょとんとした顔をする。
「怒ってんのか?そりゃ勝手に抜け出したことは悪かったけどよ 。自分のことなのにほったらかしってわけにもいかねーだろ。 だからさ……」
手首を握りしめる力が強くなる。
「そんなに怒ることねえだろ。バッツ」
ただならぬ表情のブルースにジョーカーの表情 は曇っていた。
「 バッツ何怒ってんだよ⁉そんなに」
ブルースはジョーカーの手をネジ上げた。点滴の針やモニターのコードが ブチブチと抜けて外れる。
怒りたくもなる。
「なぜ勝手に屋敷から抜け出した 。…外がどんな状況になっているか分かっているだろう。お前の命を狙っているものが外にいることぐらい分かっているだろう!!なぜそのままの姿で外に出た? なぜ勝手に テレビ番組に出た?お前は撃たれるのが分かってそんなことをしたのか! 自分が殺されればいいと思ったのか? もっと自分の命を大事にしろ!! なぜそんな単純なことがわからない」
ジョーカーの顔が歪む。
「…痛い…手を離せよ」
「死ねばもっと痛いんだぞ! 分かっているのかお前は!」
「……ははは、そりゃそうだ 。でも 一度死んじまえばもうそれ以上は痛くならないんだぜ」
怒りに満ち溢れたブルースとは対照的に ジョーカーは 悲しげな表情をしている。
「…嫌だったんだよ …俺のことでバッツまで悪く言われるのが嫌だったんだよ」
そう言って顔を伏せてしまう。
私に非難の矛先が向いてきたから?
だから自分がテレビの前に ?
「俺が死んだらさ 。きっとみんな喜ぶと思うぜ! あの テレビショーの時そのまま 黙って撃ち殺されちまえばよかったかな? ……HAHAHA!!でもジョークとしちゃ面白くねえや!」
いかにも楽しげにジョーカーは言う。
血の気がすっと引いていくのブルースは感じた。
そうだ彼はずっとそうだった 。バットマンの目の前でこれ見よがしに人を殺し 爆発を起こし 自分を殺せと挑発してくる。 それはバットマンの不殺の信条を面白がっているからだけではないだろう。……自分に殺されたがっていたのだ。

……死にたがりのピエロ 。
(道化師の中で悲しみを表現しているものをピエロと言う)

ブルースはジョーカーを抱き寄せた。
「お前が死んでみんな喜ぶなんてことはない 。私はとても悲しい。 だから自分の命を大切にしてほしい」
ジョーカーは戸惑っているようだった。
「…お前のために? 」
「私のために。」
ジョーカーはブルースを突き放した。
「お前って本当に勝手だよな!」
彼の目が拒絶している。
「俺はお前の言うことなら大概何でも聞いてるぜ。ここに来てから人だって殺してないし、 ちゃんと言うことを聞いて ウェイン・エンタープライズで働いて、 ここしばらくはずっと屋敷の中 にいて ……それなのにお前は俺の言うことなんて、何一つ聞いちゃくれない 。」
ブルースはため息をついた。
「自分の命を大事にしてくれというのは、そんなに難しいことなのか?」
「……………」
「もしそれが難しいのなら 私のために自分の命を大事にしてくれないか」
「……………」
「人を殺すのを止めることができたのなら、 自分を殺そうとするのもやめることができるだろう?」
「……………」
ブルースはジョーカーの抱きしめた。
彼の鼓動が聞こえる。それは生きている証拠である。
ジョーカーを抱きしめるその力はだんだんと強くなって行く。

「……うぐっ…!」
ジョーカーくぐもった悲鳴をあげた。
じわり…胸元が濡れた感覚がする。傷口から血が染み出していた。
「…お前なあ。」
「……すまん」
「あーこりゃまた、ハーレイを呼ばないとな」

ウェイン邸を出て 30分もしないうちに呼び戻されたドクター・クインゼルはとても機嫌が悪かった。
当たり前だこんな光景を見れば誰だって怒りたくなる。
本来なら安静にしていなければならない重症患者は、その傷口が開き 出血 おまけにさっきまでなかったあざまである。 医療器具はめちゃくちゃ 点滴は抜けて 床にこぼれ落ちている。
……何をどうすればこんなことになる。
自分が帰るなり喧嘩でもおっぱじめたのではないかという状況に唖然とするしかなかった。
ジョーカーの包帯を巻きなおし、 医療器具を設置しなおし 、点滴は新たにつけ直す。
「Mr. J 絶対安静にしていてね」
と念を押し 別の部屋で ブルースと向き合う。

「「「このクソバカコウモリ何してんのよ」」」

大声で叫んで、これでもかというほど 文句を言った後。
「それでどうしてこんなことになったの」
と、怒りを含めて尋ねた。 最もその怒りの矛先であるブルースの話した内容に 呆れ果て すっかり怒る気力も失せてしまったが。
…まず自殺願望のある相手に話すにはあまりにもストレートで 地雷を踏んでいる物言いである。Mr. J がどういうつもりで話していたのかイマイチ見えてこないが…この男はどうせいつものように人の意見などまるで聞かず、 自分の意見・感情ばかり押し付けたのだろう。
挙句あざができて 傷口が開いて出血するほど きつく抱きしめるというのはどうだろう。
……プリンちゃんこの男の一体どこがいいの?
そんな言葉を飲み込んだ。
「まあ少なくとも今のMr. J に自殺する気はないと思うわよ。 すごく幸せそうな顔してるし。…むしろあんたと生きたいと思ったから テレビショーであんな真似をしたんじゃないかしら?さっきも言ったでしょ?これはリアリティーショーだって。 来週には 世間の風向きが変わってるわよ。 彼にはそれが見えている。 自分の体を張るほどの 価値がある ジョークだと思ったんでしょう。 彼だって 自分の命をそうやすやすと 捨てたりはしないわよ。 少なくとも自分が最高のジョークだと 思える事にしか使わないでしょ。 心配しなくてもすぐに自殺するなんてことはないから!……まああんたが悪く言われて 嫌だったってのは本音だと思うけどね。 ともかく 無理はさせないでね。 半月くらいは絶対安静 。明日も来るから、 喧嘩はしないでよ」
そう言ってドクター・クインゼルは帰っていった。

翌日のニュースは テレビショーの事件で持ちきりだった。 当然ブルースはマスコミ対応に追われていた 事件のショッキングさ そしてその映像が何度もニュースに流れる。
だが 2日3日と経つうちに違った様相が見られるようになってきた。 デモは嘘のように姿を消し、 何度も映し出された ジョーカーが撃たれるシーンは 人々に同情心を植え付けた 。加害者の側ではなく被害者に 恐ろしい憎むべき怪物ではなく 謝罪の言葉を口にした 良心を持つ人間に、 彼の精神鑑定結果 語った過去の話の分析 それらが 怪物ではなく 心に病を持った哀れな人間へとジョーカーを変えていった。
当然彼を断罪するよう求める声はあった。 被害者は山のようにいたし 憎むものもまた山のようにいた。
だがそれらの人の 中にも 彼を許すべきだという声が生まれ始めていた。 撃たれたことを罪に対する罰だと捉える人々がいたからだ。 その声はだんだんと大きくなっていった。1度罪を償ったものを 再び罰するべきではない そんな考え方が 社会をゆっくりと動かしていった。おそらくこれをジョーカーは理解していたのだ 。

人を惹きつけ陶酔させる、社会を誘導し 変革させる。
……これは彼の才能だ。
生まれ持った天賦の才能だ。
社会そのものに対する 喜劇ともいえる変革。
それを執り行うことができる 生まれついてのコメディアン
……これがジョーカーなのだ。

「ウェイン社長あのこれを、ジャッ… ジョーカーさんに」
花束思った従業員がブルースに話しかける。これでもう何個目だろう。ジョーカーが撃たれた 2~3日後から からその数はどんどんと増えていき 毎日山のように 花束やらおくりものやらを持ち帰る。
危険なものはないかチェックして ジョーカーに渡す。
ドクター ・クインゼルを怒らせてしまったせいで ジョーカーは 絶対安静、部屋から出ることを禁止されている。 部屋の中は 毎日持ち帰る花束で埋まってしまい、まるで花屋のようである。

日中 、ドクター ・クインゼル が診察に来ていた。
「プリンちゃんまたお花増えてない?」
「ブルースが毎日持ち帰ってくるんだよ」
「愛されてるね」
「いや知らねえ奴からのお見舞いだと」
「ふーんみんなプリンちゃんのこと大好きってことだよね」
「会ったこともねぇ奴らからだぜ。 俺のことなんて知らねえだろ?」
「つまりファンがいっぱいってことでしょ?いいじゃない」
「あ、そうだ ハーレイ。お前に一本やるよ」
そう言ってジョーカーは バラの花を一本 彼女に渡した。
彼女が受け取ると薔薇の花はポンと音を立てて破裂した。
「キャ!!何これ! 」
「ははは案外うまく爆発したな!花の中にクリップを仕込んだんだよ。火薬無しでもいけるだろ?」
「もういたずら好きなんだから。」
「なんだよ。お前随分嬉しそうだな」
「だってこんなの久しぶりなんだもん 。そうだ今度一緒にまたいたずらしてみない? プリンちゃんと一緒ならきっと楽しい」
「いいぜハーレイ。 だけどやり過ぎたらきっとバッツ怒るよな ?」
「だったらこんなのどう ?アイビーに頼んで街中を花だらけにしてもらうの。で、その花を爆破しちゃうわけ! 町中大量の花が降って面白いよ」
「それすげー面白そうなんだけどアイビーのやつそんな頼み聞いてくれるか?」
「大丈夫!私が頼んだら 絶対聞いてくれるよ」

ジョーカーが愛したのはバットマンだけ。…そんなことはわかっている。
けれどこうやって 一緒にふざける友人として ハーレイクインを 必要としてくれるのならば これほどの喜びはない。 少しの間 ドクター・クインゼルではなくハーレイクインに戻って彼のそばにいたい。
友人としてなら 彼はそばにいることを許してくれるかな…… そんなふうに 彼女は考えた。

花束を手にブルース・ウェインは車に乗り込んだ。
こんな風にジョーカーを心配するものが社内に入るのはいいことだ。 社会が彼を受容し受け入れ 彼自身が正しい心を取り戻してくれるのならそんな素晴らしいことはない。…… そうだこれは良いことだ。 そんなことはわかっている。 それなのにブルースの胸の内に広がるのは黒々とした感情だった 。
自分は望んでいたはずである 。ジョーカーが犯罪から手を引き 罪を償い社会に貢献してくれることを。 それなのにそれを快く思わない自分自身がいる。…目を閉じて考える。

彼は人殺しだ。 殺人鬼だ。 息をするように簡単に人を殺す。この世の災いだ。 他人を誑かして大量虐殺をする恐ろしい悪魔のような存在だ…閉じ込めておかなくては、 今回だってきっと人々を油断させ 安心したところで罠に はめては えげつない 虐殺を ジョークと言ってやってのける。だから閉じ込めておかなくては。自分のもとに 鎖で縛り上げて。
……彼を信じてはならない。

そこまで考えて ブルースは目を開いた。
花の色が目に映る。甘い匂いがする。
現実を受け入れられないのはきっと自分の方だ。
ジョーカーが社会に受け入れられ 愛されて行くのを自分は受け入れられない そんな事実に 愕然とする。
…分かっている。これは嫉妬だ。
誰の目にも届かぬように ジョーカーを閉じ込めて、 自分しか見えないように してしまえたら。 ……いやいっそジョーカーが死んだことにして ずっと手元に 置いておけたら。

…分かってはいる……ひどく身勝手な妄想だ。
大体あのジョーカーが おとなしく閉じ込められるはずがない。 あの警備が厳重なアーカムからだって簡単に脱走してしまう。 行きたいところに行く。 もし自分の所にいるのが嫌だと思えば きっと今だってすぐに消えてしまうだろう。

自分の心の中に 真っ暗な闇が 広がっている。
ジョーカーを閉じ込めて自分だけのものにしてしまえたら どんなに良いだろう。
屋敷のジョーカーの部屋はもうすでに 見舞いの花で埋め尽くされている。 この花にもさっき私に花を渡した者の思いがこもっているのだろう。
ジョーカーのことを考えていたのは私だけだったはずだ…そして何より ジョーカーは 私のことを最も考えていたはずだ。部屋にある花の分だけジョーカーを想うものがいる。その事実にいたたまれない気持ちになる。ドロドロとした真っ黒な感情が胸のうちに広がる。
こんなことは考えてはだめだ。ジョーカーが正しい心を取り戻し 社会に受け入れられ 許され その力を正しく使う……それが正しいことのはずだ。 今までだってずっとそれを望んできたはずだ。…そうだそれが正しいはずだ。
車はウェイン邸の前で止まり運転手が扉を開く。花を抱えて降り屋敷に入って行った ジョーカーの部屋の前でブルースは深呼吸をする。そして、気持ちを切り替えて扉を開けた。

「おかえりブルース」
ご機嫌な道化がそう言う。
「…なんだこれは」
部屋の中の惨状にブルースは唖然とした。
部屋中に花が散乱している。花びらがこれでもかと飛び散り床を汚している。
「これは一体……何があったんだ?」
そう言うと ジョーカーは ブルースに花束を渡した。
目の前で花が炸裂する。飛び散る花びら。
驚いたブルースの顔を見て、
…………HAHAHAHAHA!!
とジョーカーが笑う。
「ハーレイと 花を破裂させて遊んだんだ!!面白かったぜ」
思いっきり笑顔で言う道化を見てブルースは毒気を抜かれたような 気分になった。
「……何だそれは 」
今まで胸の中にくすぶっていた真っ黒なドロドロとした気持ちが嘘のように引いていくのがわかる。壁にドクター・クインゼルからのメッセージがルージュで書いてある。

『クソコウモリ、医療器具を無茶苦茶にしてくれたお返しよ!ザマーミロ!! 』

…全く二人で何をしていたんだか。 呆れて物も言えない。
花まみれの 部屋を見て ブルースは笑みをこぼした。
花を渡した者の想いをみて、勝手に嫉妬していた自分がバカみたいだ 。
ーー花は所詮花だ。
ジョーカーは自らの意思で私の所にいるそれが答えだ 。
撃たれた辺りに触れる。
「もう傷は痛まないか」
「完全に塞がってるドクターのお墨付きだ! もう締め上げても血は出ねーぜ」
彼を抱きしめる何度も口付けを落としその髪に触れる。
  ー愛してるー
社会が彼を受容し受け入れ 共に生きていけるのなら、それは素晴らしいことではないか 。

テレビショーの事件から 一か月が経った。
ブルースはジョーカーを連れて出社する。傷はすっかり治り 世間は落ち着きを取り戻していた。
……この一か月の間にゴッサムはすっかりジョーカーを受け入れたのだった。


end

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