6

…微かにライラックの花の匂いがする。
未明の空には 薄い色の月がかかり、 寝転がる草の上には露が降りて肌を湿らせる。
… 体が冷え切ってゆっくりと死んでいくような気分だ。

車の音がする。 誰かが 彼の方に向かって走ってくる姿が見える。
「…ジョーカーここにいたのか」
そう声をかけられて 彼は体を起こした。
「夜中に突然いなくなったから心配したぞ」
ジョーカーはゆっくりとブルースウェインの方を見た。
「なんだ俺が逃げ出したと思ったのか」
「突然いなくなったら心配もするだろう」
わずかに 怒ったような表情をするブルースを見て ジョーカーはふふっと笑った。
「心配しなくてもいなくなったりしねーよ。 それよりも思ったよりすぐ 駆けつけてきたよな。 なんだ俺にGPSでも埋め込んでんのか?」
「……いや人工衛星から探した …いくら何でもそれは人道的によくないだろう」
ブルースは真顔で答える。
「………人道的にね 」
おかしな言葉を聞いたようにジョーカーは笑う。
「どうして急に家を飛び出した?」
怪訝な表情を浮かべた ブルースは聞いた。
「大した理由なんかねえよ 」
そう言ってジョーカーは口をつぐむ 。彼がその気になれば ウェイン邸から抜け出すことも ゴッサムから完全にいなくなることも いくらでもできるのだ。 彼が夜中に 家を飛び出したのは ついに自分との関係を打ち切って 姿を消してしまうつもりだったのではないかとブルースは思った 。
しばらくの沈黙の後 ジョーカーは口を開いた 。
「…ちょっと夢見が悪かった。それだけだ。 それで 夜風にでも当たろうと 思ったんだが、 街中どこもうるさくって 気が付いたらこんな郊外まで 来てたってわけ。 ここからなら星でも見えるかと思ったんだが 、……HAHAHA.ゴッサムの空に星なんて光ってねーや。」
「夢?どんな夢を見たんだ ?」
「覚えてねえよ」
「家を飛び出すぐらいなら、よほどの悪夢だろう?」
「本当に覚えてねえ、夢なんてそんなもんだろ。 起きたらみんな忘れちまう 」
「…ならばいい」
ブルースはジョーカーの横に腰掛けた。
「 ジョーカー、お前本当に何にも覚えていないのか 」
「くどいな。夢の内容なんていちいち覚えてるわけねーだろ 」
「…夢のことじゃない。お前自身の記憶だ」
まじまじと顔を覗き込んでくるブルースを見て、 ジョーカーは 微笑を浮かべた 。そしてわざとらしく 眉間にしわを寄せ眉を下げ オーバーな身振り手振りで話し始める。
「ああ聞いてくれるか、ブルース。 俺の母親は 街の淫売で 父親すらわからず、 俺は邪魔なお荷物として扱われ 5歳の時に無理やり男に犯された。 ひどい話だろ。 泣いても喚いても誰も助けてくれやしなかった。 ゴミクズみたいな母親は 俺が売り物になるとわかってからは容赦なく客を取らせ、 たまりかねた俺はある日 母親を殺して 逃げ出したんだ、 今でも覚えてるよ あの女の ……」
「嘘だな 」
ブルースは遮った 。
「なんだ…この話は気に食わなかったか?それじゃあ別の話をしてやろう」
そう言ってジョーカーは笑う。
「お前の話は圧倒的に 両親や大人に虐待されたものが多い 」
「だってそっちの方がみんな好きだろう?不幸な話をみんな聞きたがる。だから提供してやってるのさ」
「お前の話にそう言った 虐待された話が 多いのは元になった記憶があるからじゃないのか ?お前自身が 辛くて自分の記憶から消してしまっただけで 、お前の話に幸福だった 過去は出てこない 。辛い記憶ばかりが リアリティをもって 綴られている 。中には荒唐無稽な話も多いが 。それでも 他者から見て決して幸福とは思えない 、そんな話ばかりが 真実味を帯びて語られている 。」
「…はぁー!?なんでそうなるんだよ。…あーあれか、ハーレイの診断書か!」
「彼女は優秀だな 。お前と共にいて暴れまわっていた時はそんなふうに感じたことはなかったが。 ずっと精神科医としてお前のそばにいたわけだ」
ドクター・クインゼルの診断書には 彼女がジョーカーと出会ってからずっと聞いた話全てが事細かに 分析され 記入されていた 。
初めて出会ったその日から、ともにディランとして過ごし間近で見てきた彼の様子 。おそらくは彼女でなければ知り得ないような 事細かな 言葉の端々を 分析し 診断、カテゴリーライズされている。
アーカムの 医者では決して聞くことのできない、 見ることも叶わなかった 彼の言動をすぐ側で聞いてきたのだ 。その中には本音・真実も幾らかは含まれていただろう。
「…人のことを分析しやがって…あんな女と付き合うんじゃなかった。」
「彼女もそう思ってるだろう。 お前なんかと付き合わなければ 真っ当な人生を歩めたものを 」
「それじゃあ、お互い様だ 。だいたい俺のカルテを持って 精神科医に復帰したんじゃねーか!あいつ」
腹立たしいそうにジョーカーは 髪をくしゃくしゃとかきむしった。
「 ジョーカーお前本当に何も覚えていないのか? 」
「…ねえよ…覚えてねえ。 俺の記憶があるのはお前に出会ってからだけだ 」
「……そうか。。」
しばし沈黙が訪れる。 夜明け前に鳥たちが目を覚まし さえずる声のみが 聞こえる。

ー不意にブルースは語り出したー

「昔、父と母が亡くなってまだ間もない頃だ。 ただ毎日が悲しくってつらくって、 夜寝付けないことが多かった。
ある晩に屋敷を抜け出したことがあったんだ。 庭のバラを2輪 摘み取って、 父と母が亡くなった 路地に供えようと 思った。アルフレッドに見つからないように 花を片手に あちらこちらうろうろして、 街中をさまよい歩いて 自分がどこを歩いているのかわからなくなった 。
ゴッサムシティは広い 。いつも外に行くときは 両親や アルフレッドや 大人達と一緒で …自分が道をロクに知らないことを 分かっていなかった 。どこに自分がいるかもわからず一晩中さまよい歩き いつしか気を失ってしまった 。
ちょうど今ぐらいの 夜明けの 空の下で 私は意識を取り戻した。 自分がどこにいるかわからなかった。 郊外の公園のよ うな所にいたと思う ベンチに寝ていて 肩から毛布を掛けてあって 歳の頃の私と同じぐらいの少年が覗き込んでいた。
「君、大丈夫? 路地裏で倒れてたんだよ」
そう言ってその子が話しかけてきた。 私は黙りこくっていたがその子はずっと話しかけて来た。 私はと言うと、 虚ろに聞いていた。 その子が 何を話しているのか、 ただ悲しくて苦しい思いでいっぱいで 話を聞く所じゃなかったからだ。
「…お腹が空いてるの?」
その子がそう聞いた。 空腹で腹の虫が鳴ったからだ。
ベンチから少し離れたところにテーブルのセットがあって そこでその子がバケットを切り分けてくれた。
それはもうひどい味で バサバサで ガチガチ、日が経っているのか少しカビ臭いような匂いがした。 それでも 空腹は そのパンの味を 美味しいものへと変えた。 私の知る限り この世で最もまずくて美味しいものだった。
しばらく私が食べるのを見ていたその子だったが、 不意に走り出して 木の枝を2本取ってきて パンに突き刺した。
両手でパンを動かし パンを人の足に見立てて タップダンスを 踊らせ始めた。それがチャップリンの黄金狂時代のパンのダンス を真似たものだと知ったのはずっと後になってからだ。
ただその時はコミカルで 楽しくて どこか切ないその子の表情に 思わず見られてしまった。
そして どうやら知らずに笑っていたようだ。 その子の手が伸びてきて、 私の口元を触った。
「笑った顔の方がずっといいよ。 君とても悲しそうな顔をしてるから」
それからその子はこうも言った。
「私は悲劇を愛する。悲劇の底にはなにかしら美しいものがあるからこそ、愛するのだ。… 世界で一番のコメディアンの言葉さ」
彼は見ず知らずの私を 励まそうとしてくれた。 その後、彼は 私をポリスステーションに連れて行ってくれた 。
アルフレッドが迎えに来てくれて、 彼とはそれっきりだ。 彼と話したのは その時だけだ。 私は彼の名前を知らない。 もう姿も 思い出せない。 どんな髪の色だったのか、 目の色だったのか。……けれどその時 …彼が 悲劇の底の 美しいものを 自分にくれたような気がしたんだ。」

時間はそろそろ夜明けのようだ うっすらと太陽が登り始めている。

「…ふーん、悪くねえ昔話だな 」
ブルースはジョーカーの方を見た 。
「あの時の 少年は ジョーカー、 お前だったんじゃないかと思う」
「…うん??」
一瞬何を言われたのかわからないような表情をジョーカーはした。
「はあ?お前何言ってんだ !?覚えてねーんだろ、そいつのこと。 俺は自分の記憶がねえし、お前自身が 顔も名前もわからないようなやつ なのにどうして俺だって思うんだ?」
「さあな…どうしてだろう 。だが あの子はお前だと思う 」
「覚えてねえのに? 」
「そうだ。もうよく思い出せないが …それでも あの時お前に出会っていたんだと思う」
……ふふふ…HAHAHAHAHA!!
「なんだよ、それ。 まあ俺とお前がガキの頃から因縁があるというのは面白いけどな 。どっちも覚えてねえんじゃ、 話にならねえ。ブルースにしちゃ面白いジョークだが」
「ジョークを言ったつもりはない」
ブルースは仏頂面で答えた。

ライラックの花が香る。 その薄紫色の花が 昇り始めた朝日に照らされて 小さな蕾を開いて行く。

「帰ろう」
そう言って差し伸べ られた手を ジョーカーは掴んだ。
そうしてまた新しい一日が始まるのだ。

  ーライラックの花言葉 ー
『思い出』『友情』『大切な友』


end

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