11

帰ってくるなりソファーに倒れこんで寝てしまったジョーカーをそっとゆり起こす。 ジョーカーはゆっくりと目を開け ちらりとブルースの方を見て再び目を閉じてしまう。
無理もない この一週間ほど化学部門の研究室にずっと缶詰で、3日ほどは全く睡眠をとっていない。
「ジョーカー起きろ食事にするぞ」
そう言うと再び彼は目を開け ブルースの方をちらりと見、気だるそうな 表情を浮かべる。
「いらない食欲ない」
そう言って目を閉じて再び寝てしまおうとする彼を無理やり起こす。
「何か食べてから休め。どうせまた食事を抜いていたんだろう。」
そう言うと眠そうに目をこすり ブルースの方を見て 微笑む。
「心配しなくても ちゃんと食べてたぜ。本当に」
「どうせまた クラッカーか何かだろう」
「ふふふ、よくわかるな。そうだよ 3日ぐらい クラッカーとコーヒーだ」
「食事はきちんとしろと言っただろう。さあ行くぞ」
そう言ってブルースはジョーカーの手を引っ張り テーブルまで連れて行く。 最も本当に食欲がないのか スープとフルーツをほんの少し口にしただけで それ以上食事に手をつけようとしない。 気だるそうな、だが幸福そうなジョーカーの表情を見て ずいぶんと表情が豊かになったとブルースは思った。

ここに連れてきた当初は 何の表情もなく 暗く沈んで あまりに虚ろな目をしていた。 食事をとらず、痩せ細り 衰弱してこのまま死んでしまうのではないかと心配したものだ。 今は食欲がないと言っても テーブルにつかせればそれなりに少しは食事をする。
ウェイン邸に連れてきて しばらくの間 表情がなかった彼は 今ではブルースがバットマンだった時に見たことがないような表情を浮かべるようになった。
バットマンだった時のジョーカーの表情は笑うことのみであるそれも大きな声で高笑いし狂ったように笑う。 常軌を逸した表情に 興奮した声ギラついた目 早口で話すその様は 明らかにハイになっている。ずっとそんなジョーカーしか知らなかったのだ。
だが今は違う。
穏やかに笑う彼も 悲しげな表情も 怒って拗ねた顔も 無邪気に目を輝かせている顔も 見せてくれる。

以前ジョナサン・クレイン博士と話した時のことを思い出す。
『共感性ゼロ、痛みに無頓着、自殺傾向あり典型的なソシオパスと思われる。 おそらくは笑う以外の感情が全て欠落してしまっている。 それゆえすべての感情表現が笑うことに固執しており、 笑いを引き起こす事象つまりジョークに対して 異常な強迫観念が見られる。』
ジョーカーのプロファイリングである。
笑うこと以外 全ての感情が欠落してしまっている……事はないかもしれないが。

表情が豊かになったとブルースは思う。
笑うということは本来喜びの表現である。 だがバットマンとして対峙していた時の狂ったようなジョーカーの笑いに 喜びは感じられない 。少なくともブルースにはジョーカーの高笑いに 喜びや幸福感といったものを感じたことは一度もない。
人を食ったような笑い方である。その表情にあるのは威嚇・苦痛。
ジョーカーは自分と対峙した時なぜ笑っていたのか? 笑うことで苦痛を麻痺させていたのではないのだろうか? 自分が感じていた 痛みや悲しみを全て笑いに変えることで 精神を麻痺させてきたのではないだろうか?
それゆえ笑うことに固執しており、 笑いを引き起こす事象つまりジョークに強迫観念があると思えば 理解できる。

これは強い麻薬で苦痛を緩和するのと同じことである。
そんな強い麻薬をジョーカーはずっと欲してきたのではないのか?薬物中毒のように 自分自身の痛みから逃れ 麻痺させ 自ら精神を壊してきたのではないだろうか?

…………痛々しい。

彼は快楽殺人者ではない。 殺人中毒者でもない。少なくともブルースはそう思っている。
ともに暮らして人を殺さないという約束をちゃんと守っているし 今までだって楽しんで殺していた様子でもない。 むしろ人が死ぬことに何の関心もない。 故に殺しても 罪悪感すらない。
自分自身が感じている痛い辛い悲しい苦しいという思いを笑いという麻薬を使って無理やり楽しいに置き換えているのではないだろうか?
どんなひどい苦痛も笑いという麻薬が『楽しい』に変えてしまえば それを彼自身は 苦痛と感じることはないだろう。
ある意味では幸福なのかもしれない。 だがそれは所詮まがい物である。
ならばどうすれば良いか?
薬物中毒ならば 無理やりにでも薬をやめさせるしかない。 禁断症状も出る
だろうが、それでもそうすることが唯一の解決策だ。
ならば精神に効く麻薬は? 笑うことは本来 幸福を表す表現のはずだ。 笑わなくなってしまった衰弱しきったジョーカーを思い出す。
きっと精神の死は肉体の死に直結する。
笑うことを失えばジョーカーは死んでしまうかもしれない。 少なくともブルースにはそう思えてならない。 たとえその笑いに幸福や喜びといったものが一切含まれていなくてもだ 。
本来笑いとは幸せであるから笑うはずなのに、笑うことで無理やり 精神を麻痺させて幸福であると錯覚させているのなら 順序が逆である。 彼が幸せだと感じることを先に提示して 笑いを引き出せたなら 精神を麻痺させるような高笑いは だんだんと減っていくのではないだろうか?

彼の幸福を望んでいる。

彼に殺された者たちはきっとそんなことを許さないだろうが。 ……それでもブルースは ジョーカーが幸福であることを望んでいる。 ほんの少しづつ、少しづつ、彼が幸福だと感じることが積み重なっていったら…。彼が今まで感じてきた痛みに向き合えるだけの 幸福感 が得られたら…… 強すぎる麻薬のような 笑いを 無理やり 浮かべる必要がなくなれば、 それはきっとジョーカーに人間らしい心を取り戻させてくれるはずだ。
アーカムの医者や 心理学者たちとも 散々議論しあったのだ。
彼の心の 中にどんなトラウマがあるのか、 過去がどんなものだったのか 一切わからない以上、 いまある事実自分の知っている事実 それらを基に考えていくしかない。
バットマンとして対峙してきたこと。 アーカムにいた時の彼の様子。 そして ウェイン邸に連れてきてからの彼の様子。 それらを比較し検討し 彼の主治医と相談する。
……最近のジョーカーは柔らかな笑顔を見せることが多くなった。

じっとジョーカーの顔を見つめる。
「ブルース、ブルース、お前さ、俺の話聞いてないだろ?」
「ああすまない何の話だったか。」
「だから、予算の話だよ。 お前 新薬の研究費用 今回ので全部吹っ飛んだぞ。 大体無茶な研究ばっかりさせて予算たらねえっつうんだ !学者・研究員連中は費用まで気が回ってねえしよ! ……グダグダだわ。 頭固くて使えねーわ! 明日にでも予算の算出して 経理にまわしとくからなんとかしろよ。」
「何年も停滞していた研究開発だ。 ちゃんと予算をつけておく。 だがお前は明日は休め。 徹夜続きじゃ体を壊すだろう。 ちゃんと休暇を取ることは大事だ」
「わかった …………てゆうか、お前なんで生物兵器の研究なんざしてんだよ?明らかな国際法違反じゃねえか? 社外に出さなきゃいいと思ってんのか 。研究員連中も わかっちゃいねーし。 お前のイカれ具合ほんとハンパじゃねーよな」
「それはお前が、細菌兵器をばらまいたりするからだろう?対処療法だ 」
「……対処療法ね。…はっ!!バイオプラントまで用意しててか ?よく言うぜ!」
ジョーカーはあくびを噛み殺しながら言う。
ジョーカーは食事が終わるなり ふらふらっと寝室に入り倒れるように寝てしまった。
柔らかな緑の髪にそっと手を触れる。 呼吸で胸が上下している。 穏やかな表情を浮かべた白い顔をしてすやすやと眠る。
「お前には感謝をしている。 今回の新薬で救われる人々がたくさんいるだろう」
緑の髪を撫でながら ブルースはひとりごちた。
翌朝 まだ眠っているジョーカーを見てブルースは出社して言った。

夕方、屋敷に帰ってみるとジョーカーがいない。
『バットケイブにおいでです 』
と、 屋敷のAI が電子音で答える。
ケイブに入ると カウチを抱えたジョーカーが座っている。 ジョーカーそう声を掛けるが振り向く気配はない。
「お前さ どうしてバットマンを 降りたんだよ」
大事そうにカウチを抱え下を向いたままジョーカーはそう尋ねた。
「私をずっと支えてくれた アルフレッドがなくなって 屋敷は私1人になった 。……ずっと一人で考えていた。お前との関係を 。お前はいつも私と対峙する時目をギラギラと輝かせて狂ったように笑う。 だが私にはお前の笑いは いつも苦しんでいるように見えた。 お前自身が感じている痛い辛い悲しい苦しいという思いを笑いという麻薬を使って無理やり楽しいという感情に置き換えているのではないか? 狂気に逃げ込むことでかろうじて心を保っているのではないのか? いつも私の目の前で犯罪を犯すのは私に救済を求めているからではないのか? それなのに、結局いつもお前を殴って気を失わせて止めることしかできない。 そうすることしかできない。 ……お前から 笑いと狂気という 麻薬を取り上げることができない。 むしろバットマンと対峙し追いかけられることで 笑いと狂気を加速させている。 ゴッサムのディランはもうお前一人になった。 マフィアや小悪党はまだまだいるが、 フリークやディランと呼ばれるようなものはいなくなった。 お前を救いたいと思っているのに、お前に笑いと狂気という麻薬を与えているのは 私自身ではないのか?…そう思った。……お前を救うのを諦めた訳じゃない。 だけど20年お前を追いかけてバットマンには救えなかった。 …それが事実だ。 だから私はバットマンであることを降りたんだ」
「……………お前それ本気で考えてたのか 」
唖然とした顔をする。
「私にはお前が苦しんでいるように見えた」
「笑えるな……笑いが麻薬?俺が苦しんでるって?」
「目の前で苦しんでいるものを放っておくわけにはいかないだろう」
「ははは 、それじゃあ俺に殺された奴等はどうなんだよ? そいつらが苦しくなかったとでも ?それなのにお前は目の前にいるそいつらより 笑ってる俺を苦しんでるって勝手に解釈して 優先するのかよ ? やっぱりどうかしてるよな」
「私はお前を救いたかったんだ 」
「他の可哀想な市民より?」
「そうだ 」
「 …ひどいヒーローだな 」
「私はヒーローなんかじゃない 」
「ははは……そうか 。そうだよな。お前はヒーローなんかじゃない 。ヒーローならば ディランをほっとくわけないもんな。 正義の味方は悪をくじいて こそだよな!お前は誰も救っていない。ただのイカれたコウモリさ」
ジョーカーはゆっくりとブルースの方を振り向いた。
「俺だってさ、ずっとずっと永遠にお前と追いかけっこができるなんて思っちゃいねえよ?いつか終わりがくるだろうって。 楽しかったな…お前と追いかけっこをしている間は。…きっと最後はお前が殺してくれると思ってた 。そうしたら俺は幸福なまま死んでいっただろうに 。大体な 俺の笑いが 麻薬だとしても そこにあるのは楽しいって感情だろ? 心が麻痺してたからって どうして不幸だと勝手に決めつけるんだ 。勝手に自分で結論を出して 止めやがって」
「麻痺した心で幸福感を感じてもそんなものはまがい物だろう」
「ひっでえ ~、勝手に決めつけるな!!幸福感にまがい物も何もないだろ」
「いやそんなものはまがい物だ」
「お前の価値観を押し付けるな !俺の不幸を勝手に決めるな」
カウチを握りしめる手が かすかに震えているのが見える。
「ジョーカー私はお前に幸せになってほしい」
「……俺は別に不幸じゃねえよ 。」
そういうジョーカーをブルースは抱きしめた。


end

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